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戦後初期の日中関係を解明する大革命――バンドン会議における日中関係打開についての研究

 最近、去年公開したばかりの1950年代の中国政府外交秘密文書の一部を読むことが出来た。特に、その間開催されたバンドン会議に関する公開秘密文書を読んで、中国政府の当時の姿勢とバンドン会議における最初の日中間政府要員の交渉をめぐっての駆け引きがある程度分かってきた。特に、50年代の日中関係については、その基本的形態を解く謎がある程度見えてきて、これまでに見えなかった重大な発見が出来た。20世紀半ばころの日中関係を理解するためには、これまでにどうも解せなくて納得が行かない部分がどうしてもあったが、今回の秘密文書の分析を通して、それを解明する手がかりを得たと思って、大革命を行った感じさえしないでもない。

 1972年日中国交正常化までには、戦後の日中関係は正に「不正常」な関係であった。一方では、1952年のサンフランシスコ講和条約以降、日本が蒋介石政権と戦後処理を行って、中国との関係は戦争終結をしていない状態にあった。しかし、他方では、両者は貿易関係を続け、人物交流もある程度盛んであった。戦争関係になお居続けた両者は「友好関係」を目指して努力を続けた。そして、これは20数年間このような奇妙な関係が続いた。このような日中関係は表面上非常に変則的なものであるが、しかし、日中間のパイプができているし、その後の国交正常化の基礎となっていた。何故このような関係がこれほど長いこと続くことができたのか、これまでには適当な解明が殆どなかった。しかし、バンドン会議をめぐった日中双方の努力をつぶさに分析すれば、この回答は自ずから浮上してきたように思える。

 まず、日本側について見たい。日本側は、中国を経済的に必要とする需要があった。元々戦時中中国との経済関係が緊密であったし、戦後初期にも原料の調達と製品の販路等から考えて、中国との関係は必要不可欠であった。だが、冷戦の条件では、米国の圧力と制約で、政治的には、台湾との関係、中国と正式につなぐことが不可能であった。そこで現れたのは、いわゆる経済優先と政経分離の変形的な行き方である。米国の資料を分析すればわかるが、50年代になると、米国もある程度制約の緩和を行った。特に、冷戦下では、ソ連・東欧諸国との関係を牽制するため、日本と中国との経済関係をある程度容認するようになった。このように、日本は中国との経済関係の推進は米国の許容範囲内に納まるわけである。

 今回の秘密文書を分析すればわかるが、日本側の対応も微妙なものであったが、中国との経済関係推進を相当意欲的に示したし、バンドン会議出席の日本側首席代表である高崎達之助は柔軟な対応を見せた。外務省の目付で監視されている模様であるが、それにしても、周恩来と会談し、中国との交流への意欲をはっきりと示した。これでも分る通り、中国との関係維持は日本側として主として政治面で制約されていたが、経済面での交流はむしろ大きな空間を持っていたと言えよう。これはその後20数年間の日中関係につながっていくわけである。

中国側は日本以上に対日関係の打開に意欲を持っていた。実は、中国は鳩山内閣の対ソ関係改善のシグナルをを好意的に見て、日中間の関係調整も視野に入れていた。今回のバンドン会議を機にして、鳩山内閣の真意の打診を含めて、期待をかけていた。だから、今回のバンドン会議の準備においては、対日関係を重く見て、十分に作業を展開していた。詳しい分析は後述に譲るが、要するに、周恩来のバンドン会議出席をきっかけとして対日関係の雛形みたいなものを模索して、その後徐々に形を作ってきた。その基本原則は二つで尽きる。一つは、大同小異の方針である。もう一つは、政経不可分である。そして運用においては柔軟な展開を見せる。実を言うと、このような中国側の基本政策と対応は、戦後20数年間の日中関係の基本を作り上げたと言っても過言ではない。これは当時の中国にとって国際戦略の一環となっていた。

 1955年のバンドン会議は成立したばかりの新中国デビューの初舞台になっていた。1949年に新中国が成立した後、国際環境は一時厳しいものであった。最初は向ソ一辺倒の姿勢ができたし、その後朝鮮戦争が勃発して中国志願軍の参戦で徹底的にアメリカと対立してしまった。そのため、アメリカは封じ込めの政策を実行した。これに対して、当時外交分野を取り仕切っていた周恩来は新興の民族独立諸国を援軍と友軍と見なしてインド等諸国と急接近していた。米国の封じ込めに対抗するためには、インドのネール総理と会談を行って「平和共存五原則」を提示する。同時に、周辺環境を整備する意味で日本との関係を大変重要視していた。丁度この時期に、日本では鳩山内閣が誕生したし、バンドン会議も日程に上った。中国にとっては、これは非常に好都合である。中国トップの考えでは、バンドン会議を踏み台にしてアジア・アフリカ諸国の前で大見得を切ることが期待されていた。

 そのため、今回のバンドン会議においては、対日関係の打開は最も重要視される課題の一つとなっている。今回秘密文書を見て、当時政府トップの対日の思惑はある程度窺がえて、これまでに分からなかったことの一つとしては、是非とも日本とコンタクトを試みようとした中国政府の姿勢である。

 準備期間の秘密文書には、中国政府の対日重視の姿勢がよく見えてくる。具体的に言うと、当時の秘密文書には、特に日本に関する思索と用意がはっきりと見えてくる節がある。アジア・アフリカ諸参加国は合計29カ国参加する意思があると表明されていた。しかし、あくまでもグループごとにその出方と姿勢が分析されていたが、ただ一国、特にその動向と各種の可能性について真剣に解析がなされていた。外でもなく、日本である。秘密文書の中には、「アジア・アフリカ会議へ出席する日本に関する資料」というものが含まれている。バンドン会議出席の日本代表団の人物分析をするほか、「今回の会議に出席する日本の最も重要な目的はアジア諸国と自主的な経済外交を展開することにある」と分析を行って、日本のいわゆる「政経分離」の基本姿勢をある程度把握している模様である。

 具体的な内容は後述に譲るが、ここで特にその出所と処理について分析をしたいと思う。この秘密文書の頭注にあたるところに、「李克農同志より送られてきたもの」と記されていることが特に注目されたい。他の国々については外交部の資料が中心になるが、日本となると、ほかの部門も動員して、詳しい調査と分析を行った。

 なお、会議の準備案には、「日本」という国を基本的に独立平和を主張する国のグループに分類しているし、また得に日本という国の名前の側に傍線を引いて、周恩来の脳裏に特に思索を巡らされている節が見られる。特に、日本については、重点的に接触する国のリストに入れて、「貿易代表団が解決できない問題を討議するよう努力し、事務関係成立の基礎を作り上げる」とはっきりと具体的な目標を上げている。ここからもわかるが、特に日本が重要視されているし、日本をめぐる活動もはっきりと決められている。

 それから、代表団の人選の面でも、この対日重視と対日打開の姿勢も窺がえる。具体的に言うと、廖承志の入選である。廖承志は日本でよく知られている人物である。若い時日本で育ってきたし、日本の学校に通って教育を受けていた。父親が暗殺されて、母親と一緒に日本で長いこと生活していた。中国政府の中では数少ない知日派である。今回の秘密文書から言えば、代表団員の名簿があるが、廖承志は「顧問」の肩書きを持っている。本来彼は華僑委員会の副主任のポストであるが、今回重要な一員として顧問の形で代表団に参加している。当然彼の日本滞在のバックがいかされている。要するに、日本の政財界には友人も多いし、日本についてはよく知っているし、対日工作の適当な人選になっていた。予想があたったように、インドネシアに到着してから、岡田に出会った。旧い友人である。そのパイプを通じて、日中代表団双方の意思疎通が出来て、バンドンにおける日中会談を演出させた。

 バンドンでは、日中間の接触は数回予定されていたが、結局のところ、高崎一行は中国代表団滞在地を訪ねて情報交換を行ったが、翌日に予定された会談ができなくて、その一回で終了した。しかし、この一回の会談と情報交換は大きな成果を挙げた。一言で言えば、今回の会談では、日中双方の姿勢の相互確認ができただけでなく、その後の日中関係の姿も規制する基本原則も暗黙の了解として成立したと思われる。それはつまり周恩来の主張である「大同を求めて、小異を存する」という柔軟な対応と日本側の主張である「経済優先」の暗合である。双方の基本姿勢と最低限の協力の可能性については考え方がこの会談で共有できたとも捉えられる。

 中国側の主張では、「大同を求める」ことは最優先される事項である。勿論種々の面で日中間では対立していることが多いが、これは中国側の最大の柔軟な対応である。台湾問題については絶対に譲歩することができないが、しかし、今回の秘密文書でもわかるところであるが、日中双方とも経済交流を推進する用意がある。いうならば、これが最大の共通項である。日本側としては、アメリカの制約があるが、しかし、経済交流はある程度可能である。特に、経済交流の形の人物交流と情報交換はいつも伴っていたのも事実である。この時点で、周恩来と高崎は相互に共通項の確認を暗合の形で出来上がっていたといっても過言ではない。そして、これはその後の日中関係の基本の形を作り上げていくわけである。

 その後、日中関係は貿易関係を中心として改善され、前進した。民間という形の貿易協定が結ばれたし、L-T貿易という形の比較的長期協定も調印されていた。なお、野党中心の人物交流は相当のレベルで展開され、日中間の情報交換と意思疎通が殆ど障害なく進められていた。その後の20数年間、このような関係が続いていた。政府間の条約もないし、表面上戦争状態がまだ終わっていなかったが、経済交流、貿易往来、さらに文化交流がずっと盛んに行われていた。いわば変則的な関係がずっと長いこと続いていた。その間、岸信介の時代には冷えていたが、間もなくまた改善された。実を言うと、その間は正にバンドン会議での暗黙の了解が障害にぶつかったので、そんな事態になったのである。詳しい分析は別の機会で論じたいと思うが、しかし、これも反面から周恩来と高崎の会談の意味が裏付けられる。この意味においては、バンドン会議、特にこの会議における周恩来と高崎との会談は、日中国交正常化までの戦後日中関係を作り上げた基本であるし、その原点をなしていると言ってもいい。

 これまでには、バンドン会議についての研究が少ない上に、戦後日中関係におけるバンドン会議の日中政治家交渉の重大な役割については殆ど言及されることがないほどである。これまでの研究では、バンドン会議における周恩来と高崎の会談はそれほど注目されていなかった。その結果、この会談が日中関係を規制する軌道を敷設した意義も十分に認識されていなかったし、評価もされていなかった。今回、中国外交部公開の秘密文書を研究して、特にその当時の政治背景と状況と結びつけて、綿密に突き合わせて、当時の中国の姿勢はよくわかるし、これまでの幾つかの推測も裏付けられた。これが、その間の日中関係に関する研究の一大進歩になるものと思う。

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