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2009年9月

徐福の謎

去年、徐福伝説の遺跡を探して、新宮を巡ってみた。駅前の徐福公園を見て、驚いたこちには道教姿徐福の立像が笑顔満面でそこに立っている。公園全体の雰囲気について言えば、立派というより、華麗そのものと言えるかもしれない。地元の人たちの熱気が伝わってくる感じがしている。徐福は今も生きている。この2000年前に生きていた人は、今微笑みを浮かべて、現代の我々に何かを話しかけていると思われる。

調べてみたら、列島の各地に所々徐福に縁のある場所、古跡みたいなものが数多くある。南から北へと徐福に縁があるといわれているところが点々とつながっている。数年前、佐賀へ行った時の話であるが、本来は別の調査で行ったが、徐福関連の遺跡が数ヶ所あると地元の人たちに勧められて、海辺を訪ねて、徐福の列島上陸地といわれる所を拝観した。地元の人たちの話によれば、昔ここあたりには徐福と関連のある神社があったと言われる。後から聞いたが、鹿児島にも徐福上陸地とされる場所があって、そこには巨大な徐福像が作られているということである。なお、福岡県にも八女とか、倉敷とか、徐福の上陸地があるそうである。

これだけでも、徐福の伝説がいかに列島から切り離そうとしても切り離せない関係にあることがわかる。すでに2000年以上前の話であるし、史料として残っているものが限られている。歴史の事実については簡単に調べられるわけではない。しかし、徐福は列島に多大な影響を与えたのは想像に難くない。

それでは、列島にとっては、徐福は何であろうか?これは、徐福の伝説と徐福の位置付けから何らかの消息がうかがえると思う。

徐福は種種の役として祭られている。時には、先祖として祭られている。時には、上陸後なくなったが、その同行者たちが列島に残っていると言う伝説として伝わっている。また、時には、職人の神として祭られている。なお、薬の伝来者として祭られている場合もある。考えてみれば、徐福は2000年前に種種の「文化」を将来していたと思われる。その上、徐福は一人ではなく、むしろ集団の船団で渡来したという伝説があるので、当然のこととして、種種の異なった徐福像が描かれている。また、彼とかかわっていて、伝説として残っている場所がそれほど多くある。要するに、徐福が渡来した時には、彼は「500人の男の子と500人の女の子」を連れてきたのであるから、徐福自身が死んだとしても、同行者は一杯いるし、またその男女の子供も新しい命を数多く生んだことが想像される。また、船団の人たちは航海、天文、農業、医薬並びに各種の職人がいるので、種々の専門家が生き残ることも考えられる。なお、それぞれの船が上陸したし、また難破したものが多く、上陸したところも異なったこともあるかもしれない。生き残る人たちはいずれも除福の船団の人であるから、いずれも徐福になるわけである。だから、多くのところで徐福が上陸し、それぞれのところで徐福にかかわる遺跡と伝説が残ることになる。

2000年前、近代意味の近代民族国家がなかったし、地域間の交流が活発に行われていたのも当然である。日本列島は大陸と海を隔てているので、その交流は一層神秘な色彩を帯びていて、人々の心の向かうところになっていたであろう。面白いことには、徐福はいわゆる道教の信仰者なので、当然神仙の思想を持っていたし、また長寿不老の目標を求めていたのである。その理想郷は遠く東のほうに離れている蓬莱にあると信じていたであろう。神仙の思想と現実の世界の接点にあるのは、大海の彼方にある列島なのである。このように、その時代の神仙思想の信仰者である徐福は東を目指して海を渡って、列島に到着したのであると思われる。しかし、彼は元々理想郷を求めたのであるから、現実の列島に到着して、ここを理想郷として生きていくことになる。当時の中国では孔子の儒学思想が既に広がっていたので、中華思想みたいなものが生まれていたと思われる。しかし、東方にある列島は「化外」の地ではなく、理想郷とみなされているところが面白い。

徐福の時代が過ぎたし、既に2000年前の伝説になっている。しかし、徐福は列島に来て、種種文化を将来して、神秘化されているが、その伝説が後世に伝わっているし、現代のわれわれにも話し掛けているように思われる。一言で言えば、東アジア地域は互いに隣接して、互いに交流し、平和的に共存していくと、徐福は行動でその理想を示しているのではないかと思われる。

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