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徐福の謎

去年、徐福伝説の遺跡を探して、新宮を巡ってみた。駅前の徐福公園を見て、驚いたこちには道教姿徐福の立像が笑顔満面でそこに立っている。公園全体の雰囲気について言えば、立派というより、華麗そのものと言えるかもしれない。地元の人たちの熱気が伝わってくる感じがしている。徐福は今も生きている。この2000年前に生きていた人は、今微笑みを浮かべて、現代の我々に何かを話しかけていると思われる。

調べてみたら、列島の各地に所々徐福に縁のある場所、古跡みたいなものが数多くある。南から北へと徐福に縁があるといわれているところが点々とつながっている。数年前、佐賀へ行った時の話であるが、本来は別の調査で行ったが、徐福関連の遺跡が数ヶ所あると地元の人たちに勧められて、海辺を訪ねて、徐福の列島上陸地といわれる所を拝観した。地元の人たちの話によれば、昔ここあたりには徐福と関連のある神社があったと言われる。後から聞いたが、鹿児島にも徐福上陸地とされる場所があって、そこには巨大な徐福像が作られているということである。なお、福岡県にも八女とか、倉敷とか、徐福の上陸地があるそうである。

これだけでも、徐福の伝説がいかに列島から切り離そうとしても切り離せない関係にあることがわかる。すでに2000年以上前の話であるし、史料として残っているものが限られている。歴史の事実については簡単に調べられるわけではない。しかし、徐福は列島に多大な影響を与えたのは想像に難くない。

それでは、列島にとっては、徐福は何であろうか?これは、徐福の伝説と徐福の位置付けから何らかの消息がうかがえると思う。

徐福は種種の役として祭られている。時には、先祖として祭られている。時には、上陸後なくなったが、その同行者たちが列島に残っていると言う伝説として伝わっている。また、時には、職人の神として祭られている。なお、薬の伝来者として祭られている場合もある。考えてみれば、徐福は2000年前に種種の「文化」を将来していたと思われる。その上、徐福は一人ではなく、むしろ集団の船団で渡来したという伝説があるので、当然のこととして、種種の異なった徐福像が描かれている。また、彼とかかわっていて、伝説として残っている場所がそれほど多くある。要するに、徐福が渡来した時には、彼は「500人の男の子と500人の女の子」を連れてきたのであるから、徐福自身が死んだとしても、同行者は一杯いるし、またその男女の子供も新しい命を数多く生んだことが想像される。また、船団の人たちは航海、天文、農業、医薬並びに各種の職人がいるので、種々の専門家が生き残ることも考えられる。なお、それぞれの船が上陸したし、また難破したものが多く、上陸したところも異なったこともあるかもしれない。生き残る人たちはいずれも除福の船団の人であるから、いずれも徐福になるわけである。だから、多くのところで徐福が上陸し、それぞれのところで徐福にかかわる遺跡と伝説が残ることになる。

2000年前、近代意味の近代民族国家がなかったし、地域間の交流が活発に行われていたのも当然である。日本列島は大陸と海を隔てているので、その交流は一層神秘な色彩を帯びていて、人々の心の向かうところになっていたであろう。面白いことには、徐福はいわゆる道教の信仰者なので、当然神仙の思想を持っていたし、また長寿不老の目標を求めていたのである。その理想郷は遠く東のほうに離れている蓬莱にあると信じていたであろう。神仙の思想と現実の世界の接点にあるのは、大海の彼方にある列島なのである。このように、その時代の神仙思想の信仰者である徐福は東を目指して海を渡って、列島に到着したのであると思われる。しかし、彼は元々理想郷を求めたのであるから、現実の列島に到着して、ここを理想郷として生きていくことになる。当時の中国では孔子の儒学思想が既に広がっていたので、中華思想みたいなものが生まれていたと思われる。しかし、東方にある列島は「化外」の地ではなく、理想郷とみなされているところが面白い。

徐福の時代が過ぎたし、既に2000年前の伝説になっている。しかし、徐福は列島に来て、種種文化を将来して、神秘化されているが、その伝説が後世に伝わっているし、現代のわれわれにも話し掛けているように思われる。一言で言えば、東アジア地域は互いに隣接して、互いに交流し、平和的に共存していくと、徐福は行動でその理想を示しているのではないかと思われる。

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翻訳と通訳の思い出――日中の架け橋をめざした人生

昼夜なき6年間の通訳生活

この間、友達から頼まれて久しぶりに翻訳の仕事をした。仕事はすらすらと順調におおなわれてきたが、その間、時々昔の往事が頭に浮かび上がる。既に年が行っている証かもしれないと思うが、昔の往事はどうしても忘れられない。これも人情かもしれない。

振り返ってみると、最初の翻訳の仕事をして以来、既に40年以上の歳月が流れた。若い時から翻訳に没頭した時期を過ぎて、その後研究者の道を歩んできたが、それでも研究と翻訳を両立して、二足のわらじを履いてせっせと働いてきた。

最初の翻訳と通訳の時代には、若いこともあって、本当に一生懸命尽くしていた。丁度その時、中国では大量に日本からプラントを輸入していた時期で、僕は交渉の場と工事現場に入って毎日のように朝から夜まで通訳を担当して一日中日本語と中国語の両方を跨ってしゃべっていた。良くもあれだけたくさんしゃべったなーと今でも時々感心するほどである。丸々6年間、青春を通訳と翻訳にささげたともいえる。あの時代の知人に出会って、いつも「通訳の首席」と今でも呼ばれている。あの時代に、三つの石油化学プラントで翻訳と通訳の仕事をしてきて、それらのプラントが無事に完成して運転を始めて、今でも順調に服役して動いているそうである。

今でも覚えているが、プラントが完成して、お祝いの祭りを行った。その時、日本側の代表は挨拶で言ったが、それは本当に感動させられた。その人の言うことによれば、「われわれは汗を流してプラントを建設したが、高さんは口で通訳してこのプラントの完成を迎えた。」正にその通りである。通訳を通じて、日中双方の意思疎通を行って、プラントの無事完成に貢献したということである。

今から考えると、通訳の生活で本当に無謀に近いことも結構やっていた。一時、プラントの商談で日中双方に考え方の相違ができていたが、現場ではすでに工事が始まって、交渉の結果を待っている状態であった。そこで、北京市都心の民族ホテルで毎日のように朝から夜まで交渉が続いていた。夜になると、商談が休みになるが、その結果についての資料の整理やら、交渉メモの作成やらで、夜もろくに眠れなかった。時には、夕方一日の交渉がやっと終わったと思ったら、急に東京からの緊急連絡が入ったり、別の分科会での交渉がまた始まったりしていた。睡眠することなく、36時間連続して会議の通訳をやった記憶もある。若いこともあって、疲れをそれほど感じていなかった。逆に、あの時期の思い出は本当に楽しかったと思う。

猪口孝編著『政治学叢書』の翻訳

30代の後半に、研究職に転換して日本についての研究を行ってきたが、その間、日中国民の相互理解を促すためには、どうしても相互の事情を知ることが一番の前提であると思って、時間を作って翻訳を続けてきた。今振り返ってみれば、結構多くの翻訳をやってきた。学術の著書も翻訳したし、ベストセーラーの小説も翻訳したし、また特に児童文学の作品を数多く翻訳または監訳してきた。

その中、東京大学猪口孝教授編著の政治学著書シリーズの編集翻訳を1989年に行った。若い人たちを集めて、翻訳プロジェクトチームを作って翻訳を分担したが、私は監訳を担当して、全体の翻訳の指導とチェックを真剣に行っていた。特に、その中の第一冊である猪口孝の著書『国家と革命』の翻訳を担当して、一番最初にそれを翻訳して、経済日報出版社からその中国語版訳本を出した。現在でも、インターネットで検索したら、猪口さんのこの著書の中国語訳も相当出ている状態である。当時、猪口さんは東大に留学先から戻ってきて間もない時期であったし、奥さんの猪口邦子はここ数年政界に転出して議員になったり、大臣になったりして随分えらくなっているが、あの時は上智大学の若い教授であった。当時、政治的雰囲気が厳しいものもあったが、最初の数冊が翻訳できて刊行された時、北京で地味な祝賀会と学術検討会が行われた。

猪口夫婦と日本側の著者の皆さんは訪中して、翻訳者と原作者との交流が活発に行われた。正直に言って、翻訳のプロセスにおいては、種種訳語や内容に関する検討が行われて、翻訳監督の責任を負われていた私はすべての訳文をチェックする立場にあったので、結構苦労した。しかし、同時に、種種勉強も出来て、本当によかったと思う。たとえば当時の選挙についての分析について有権者のBuffer Playerを「牽制投票者」とその訳語を確定したりして、それなりに貢献をして、苦労の挙句の楽しさも随分味わっていた。その後、原作者の浦島郁夫先生も時々この牽制的投票者という言葉を使っているのを見て、本当に楽しい。今から考えれば、当時国際的な政治学研究の開拓時代なので、このシリーズの翻訳は苦労が多かったが、学会の評価を得て、それなりにむくわれたと思う。

西村寿行著作の翻訳と作者との交流

実のところ、翻訳は二足のわらじの形で出来るものであるから、ずっと前、随分若い時からすでに始められた。大学を卒業してから、数年技術学校の教師をしていたが、その時、二足のわらじという形で翻訳を始めた。最初は鉄道関係の日本語資料を翻訳したり、環境変化についての資料を翻訳したりしていた。当時は主として産業翻訳の形で科学情報研究所のお手伝いをしていたが、最初の練習として本当に役立ったと思う。勤務の学校は研究所の所在地北京から400キロ離れていたので、時々帰省の名目で北京へ帰って、研究所の翻訳者と情報交換をやったりして、楽しい一時を過ごしていた。若い教師として一足のわらじをまじめにやっていたと同時に、プロ文革の只中でまともな授業もできなかったので、自分の専門と関係のある日本語の翻訳をできて、最高の喜びを覚えていた。

大学院時代にはすでに本格的に翻訳作業を始めた。出版社の編集者と情報交換を行って、

日本の文学作品を翻訳したりしていた。当時、プロ文革が収斂しだした時期にあたって、外国の文学作品は精神的に飢餓していた読者に貪欲読まれていた。日本の映画「追捕」が上映されて好評を得ていたので、原著の「君、憤怒の河を渡れ」の姉妹著書である「屍海峡」を読んでから群衆出版社の編集者にその翻訳を推薦した。翻訳を正式に頼まれた時、大いに興奮して、夜はよく眠れなかった。当時はパソコンがなかった時代なので、原稿用紙に翻訳して、また修正してから時々清書をしなければならなかったが、それでもいち早く翻訳を完成して編集者に翻訳原稿を提出した。これは意外に大当たりになって、再版、三版して多くの人たちに読まれていた。産業翻訳と違って、訳本は正式に出版されたし、訳者の名前として私の名前もちゃんと表紙に出ているので、駆け出しの翻訳者として本当にうれしかった。

その翌年かと覚えているが、シンポジウムに出席するため東京へやってきたが、関係協会を通して著名作者である西村寿行に会って、翻訳前後の経緯、翻訳後の反響等を報告して、訳本のサンプルを手渡した。その夜、約束した通り、新宿のマンションへ行ったが、西村寿行先生は客室の中で髭の顔に満面の微笑みを浮かべて迎えてくれた。日本式の座敷という形なので、正座していたが、畳ではなく、毛が長い絨毯なので、膝にはふわふわとした感じがしていたのを今でも覚えている。西村先生の言うところでは、彼は社会派の作品を多数書いたが、それはあるいは中国では読まれるかもしれない。その場で、美人の秘書に社会派の著書を数冊別室から持ってくるよう言いつけて、鄭重にその著書を手渡して贈呈してくれた。これをきっかけにして、日本の作家たちと付き合い始めて、ペンクラブのパーティーにも出席して、挨拶をした。翻訳者として原著の作者たちと情報交換を行って、翻訳質向上には本当に大変役立った。

東京での産業翻訳

言語間の翻訳と通訳は人たちのコミュニケーションを促進するには大きな意義があるものと思う。20世紀80年代、丁度中国が改革開放を始めた時代である。外国からの情報が流れてきたし、中国も注目の的と有望な市場として見なされて、世界的に関心の対象となって、中国の状況の紹介も大きな仕事になっていた。僕は駆け出しの翻訳者の時代を卒業して、本格的にこの世界に入ってきた。今でもはっきりと覚えているが、この80年代の半ば頃、僕は調査と研究の作業を行うため比較的長期間の日本滞在を経験したが、その時、僕の翻訳生活にとって、また新しい出会いがあって、翻訳の専門的技量を向上するチャンスが得られた。

具体的に言えば、この時期には、日本での産業翻訳を始めて、その上翻訳会社では可愛がられていた。翻訳生活について言えば、この時期は駆け出しを卒業してニューフェースとして現れたが、それなりに評価されて、楽しい思い出が一杯残っている。最初は新橋のビルへ行って、面接みたいなことをやった。所長は温和な紳士で、暖かく話しかけてくれた。そこで、これまでの経歴が大きな話題になった。たとえば、それまでにはすでに6年間工事現場で通訳を担当してきたし、文学著作と技術資料の翻訳を数多く行ってきたし、また谷牧副総理、彭真全人代委員長等トップ要人のために通訳を担当したことなどを話した。要するに、これまでの経歴を報告して、翻訳に関する自信を示した。すると、所長は少し不機嫌な顔で「まだ若いからそんなに自惚れてはだめ」と説教してくれた。本当を言うと、自分はそれほど自慢していなくて、ただ、翻訳の仕事を引き受けるために自信があるところを見せたいと思ったに過ぎない。所長の話を聞いて、心から反省した。

翻訳会社は本当に温かくも見守ってくれて、種々の仕事を割り当ててくれた。最初は電子と通信関係の資料の翻訳をやって、その後、仕事は多岐にわたって、種々領域の翻訳の作業をやった。その他、法律関係の代表団、環境設備関係の代表団が来た時に、引っ張られて通訳の仕事をやっていた。今から考えてみれば、よくも体力が続いたと思う。朝の5時頃宿舎から出発して、現場に到着してから、代表団の皆さんと合流して、一日のハードなスケジュールを消化して、夜遅くへたへたになって宿舎に戻る。仕事が面白かったということもあったからかもしれないが、疲れをそれほど感じていなかった。

しかし、その後、翻訳の仕事を引き受けてやっているうちに、多分実績が認められたのか、所長は毎回会うときに微笑んで頷いてくれた。その後、家の事情でしばらくの間翻訳の作業を一時中断することになったが、その時、所長は親切に家の事情を聞いて、お香典までだして、慰めてくれた。今から考えてみると、あの時はまだ駆け出しなので、かえって怖いことを知らない。翻訳の作業を引き受けて、昼夜なく精を出してがんばっていた。そこで、品質と納期をきちっと守っていたので、それなりに評価されたのだと思われる。あの時代にはワープロがまだ使い物になっていなかったので、翻訳して原稿用紙にせっせとペンで書いていた。納期厳守のため時には徹夜もやったし、苦労の多い翻訳生活であったが、本当に楽しい思い出が一杯残っている。

『翻訳の世界』のインタビュー

翻訳の世界を泳いで、自分を磨いてきたが、口ごみで多くの人たちと付き合いを始めた。丁度その時、どこの紹介か知らないが、ある日、突然電話が入って、取材にくると言う要請があった。私の宿舎の小さい部屋で、記者がやって来て、種種話をしていた。あの時、どんな話をしていたか、今のところ既によく覚えていない。ただ、後で分かったが、取材に来たのは、『翻訳の世界』という雑誌の記者である。そして、その後、記者は取材の内容を整理して、雑誌に載せて、私の基本的状況を紹介してくれた。実のところ、翻訳の世界に載っている記事を読んで、不思議に思ったことがあった。その時、研究者と翻訳者の二足のわらじを履いて仕事をしていたが、翻訳の世界の紹介では、翻訳だけを中心にして仕事をしている感じがしないでもなかった。後から考えれば、当然のことかもしれないが、翻訳の世界であるから、翻訳にスポットを当てていたのも当然かもしれない。

というのも、これはまったく私自身の思い込みかも知れない。この時期には、すでに研究者として再出発したので、むしろ自分は研究の仕事のほうに力を注いでいた。研究のポストについてから、翻訳と通訳の仕事も結構やってきたが、政治学叢書の翻訳も示したように、仕事はアカデミックの世界に傾いた。特に、国際シンポジウムが多く開催されていたので、時々会議の同時通訳を担当していた。当然のこととして、専門分野の勉強も大きなウェートを占めていた。特に日中文化交流について資料を発掘して、考証を重ねて、時々論文を発表して考え方をまとめてきた。今でも覚えているが、学会での発表を認められて、それを整理して、論文要旨みたいなものをまとめて『朝日新聞』に、日中文化交流の一環としての七夕を考証した短文を載せた。その後、日本舞踊の先生や大学の同僚たちは時々たずねてきて、翻訳と通訳の話に限らず、いろいろな話題に花を咲かせた。

考えれ見れば、翻訳と通訳は生涯の仕事としてやってきたし、徐々に経験を積み重ねて、実践ばかりではなく、理論的にも思索をめぐらしてきた。振り返ってみたら、若いときは本当に怖いことなく、一直線猛進したところがあった。翻訳、特に通訳のプロセスにおいては、失敗も味わったこともあったが、長いこと実践をしていると、自然にそのコツを身につけて、忘れようとしても忘れられない。すると、翻訳と通訳の作業は楽しみになっている。その後、研究者の生活を主としてすごしてきたが、二足のわらじという形で、翻訳と通訳もかねて携わってきた。そして、ここ数年間、昔の翻訳と通訳の実践を分析して、思考をめぐらして理論的にそれを整理してまとめようとしている。それとともに、あの時の思い出が時々頭に浮かび上がって、微笑まずにいられないことが時々ある。

090615

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